日本のコマ撮りアニメーション 昭和(1950年代〜1960年代)
平成〜令和までの流れを記す前に、まずどのような経緯でコマ撮り・人形アニメーションが発展していったのか。どのような機会に作品を見る事が出来たのかを記します。
*便宜上()内のお名前は敬称略としています
戦前〜戦後(1950年代)
コマ撮り(人形、クレイ、切り紙など)の歴史を紐解けば映画の黎明期から始まります。
戦前の日本でも人形を用いた作品として「ロストワールド」(日本公開:1925年 特殊効果:ウィリス・オブライエン/監督:ハリー・O・ホイト)や「魔法の時計」(日本公開:1931年監督:ラディスラフ・スタレヴィッチ)、「キングコング」(1933年:特殊効果:ウィリス・オブライエン/メリアン・C・クーパー、 アーネスト・B・シュードサック)といった作品が上映されています。
切り紙(カットアウトアニメーション)では「アクメッド王子の冒険」(日本公開:1929年 監督:ロッテ・ライニガー)などが公開されました。大藤信郎さんや荒井和五郎さんらも同じく切り紙でアニメーション作品を発表していました。
その頃の日本で人形を用いた作品について調べると、荻野茂二さん、乾孝さんのお名前や「かぐや姫」(1935年 監督:田中喜次)を目にします。「かぐや姫」は人形の置き換え式で、円谷英二さんや政岡憲三さんが関わっています。つまり“やってみた”人たちはいました。しかし、戦中・戦後になると人形を用いたコマ撮りの話題は日本から一度消え去ってしまいます。
その復活は1953年です。
戦争末期に中国に渡り、戦後8年経って中国から帰国した持永只仁さんによって行われました。持永さんはもともと瀬尾光世さんに教わって日本初のマルチプレーン撮影台の開発も行った手描きアニメーションのエキスパートでした。しかし終戦後の中国で「操り人形」を用いたニュース映画を撮る事を求められます。でも人形が上手く扱えなかったので『コマ撮り』で撮影する事を思いつき、それを実践しました。この偶然が戦後の日本にコマ撮りアニメーションをもたらすきっかけになります。
その持永さんに興味を持ったのが飯沢匡さん。飯沢さんは劇作家であり、トッパンの人形絵本を手がける、人形劇に強い興味を持つ方でした。飯沢さんは自らが主宰する『人形芸術プロダクション』(会社ではなくグループ)に持永さんを招聘。そしてアサヒビールのPR映画「ほろにがくんの魔術師」が作られました。それは日本テレビの「ほろにがショー」の合間にも放送されたようです。したがってテレビコマーシャルと言っていいと思います。
この作品でアシスタントを務め、人形アニメーションを学んだのがグループのメンバーだった川本喜八郎さんです。川本さんはもともと東宝の美術部の出身で、幼少期から人形制作を行なっていました。飯沢さんに見出され人形絵本の人形制作を担当する中で、飯沢さんに連れられて税関の試写室でイジィ・トルンカさんの「皇帝の鶯」*を目にします。その美しさに魅了された川本さんは人形アニメーションを作ってみたいという夢を持ちました。だから「ほろにがくんの魔術師」で持永さんのアシスタントを務めると、すっかり人形アニメーションの世界にはまってしまいます。
*ちなみにこの時代、チェコスロバキア(当時)と国交が再開していないことや、国の映画輸入の政策方針によって“チェコアニメ”はまだほとんど日本国内に入ってきていません。
その後、1958年に飯沢さんたちはコマーシャル制作会社の『シバ・プロダクション』を作り、「アサヒビール」「ミツワ石鹸」*などのテレビコマーシャルを作ります。そこで川本さんはメインアニメーターを務めました。
CMの人形のデザインは土方重巳さんです。よく勘違いされるのですが、川本さんは人形制作をしているけれどデザインはしていません。加えて、『シバプロ』はコマーシャル会社ですから、同じCMでも別のアニメーターが動かしているという事もあります。
*「ミツワ石鹸」について細かいことを言うと、テレビコマーシャルで3人娘(ミー・ツー・ワー)が登場するのは1954年ではなく1958年以降です。それ以前のシバプロ制作のCMは「ペンキ騒動」や「ミツワテレビ童話」です。加えて、動画サイトで時折あがってくる、バトンを振る3人娘とミツワプラスがセットになったコマーシャルは1965年にACC CMコンテストで受賞したもので、ディレクターは大熊隆文さんでアニメーターは小林孝司さんが担当です。よって小林さんのアニメート技術にもきちんと光を当てるべきではないかという気持ちがあります。その頃には川本さんはシバプロを退社していて人形制作も別の人です。
少し時間を遡ります。『人形芸術プロダクション』に技術を伝えた持永さんは、1955年に電通映画社の協力のもと自らのスタジオ『人形映画製作所』を設立して、コマ撮りアニメーションを用いた敎育映画を制作していきます。
ちなみにその頃の持永さんを支えた一人が、かつて「かぐや姫」を監督した田中喜次さんでした。
日本初の人形アニメーション映画「瓜子姫とあまのじゃく」(1956年)をはじめ、「ちびくろさんぼのとらたいじ」(1956年)「こぶとり」(1958年)など持永さんの作品は子供達に向けられたものでした。
川本喜八郎さんも飯沢さんたちのグループと掛け持ちしながら、『シバプロ』設立までの間にそこで学び、技を磨きました。それにしても持永さんの作品履歴を検索していただければ分かりますが、短期間に多くの数の作品を手掛けています。それも全てがハイクオリティ。長年堪えていた創作欲求が一気に噴出した感じだったのではないかと思います。
ちなみに持永さんは『学研』の神保まつえさん達にも人形アニメーションの方法を指南したとのこと。本当に持永さんがコマ撮り・人形アニメーションを日本に広めたと言えます。
その後、人形映画製作所が1959年に制作した「王さまになったきつね」には、今でも現役の真賀里文子さんが初参加。真賀里さんは初めてスタジオを見学した時に、その創造の世界の美しさに感動したそうです。
<戦前から50年代に関して>
ここまでで触れておきたいのは、持永さんが帰国する前の日本でも、コマ撮りや人形アニメーションの存在が知られていたという事です。戦前の「キングコング」はヒットしていますし、特に「魔法の時計」は大阪毎日新聞社が大々的に宣伝を行い、全国各地で上映を行った結果、まだコマ撮り制作を行う以前の持永只仁さんや飯沢匡さんもそれを目にして記憶に留めています。
そして戦後になっても、当時の雑誌を見る限り、実写の方に進んだジョージ・パルさんが、かつてパぺトゥーン(置き換え式のコマ撮り)を制作していた事も紹介されています。また、大藤信郎さんは戦後も切り紙(千代紙)アニメーションを作り続けています。
加えて「猿人ジョーヤング」(アメリカ公開1949年 特殊効果:ウィリス・オブライエン、レイ・ハリーハウゼンほか)は、持永さんが帰国する1年前に日本でも公開されていて、飯沢匡さんはそれを強く推薦していたようです。だから持永さんたちは、知られてはいたけれど日本では本格的に作られていなかった技術に光を当てたとも言えます。
しかしそのために開発した技術は中国滞在中に持永さんが独自に試行錯誤したものでした。
チェコやアメリカから教えを受けたのではありません。
ただし持永さんは中国でチェコから渡ってきたフィルムや人形を研究する機会があったとお話しされているので、スタートは独学であっても、そこから全く外の知識を得なかったわけではありません。ちなみに当時中国で「皇帝の鶯」の人形を直に見ているそうですが、その話を時系列で整理すると1949年の事だった可能性があります。
ところで、コマ撮り(人形)アニメーションは人形劇と一緒にされて「人形映画」と記される事もありました。ですからコマ撮りだと思ったら人形劇だったという事も古い作品には多いです。しかし人形劇に関係していた人たちが後に人形アニメーションに関わる事もあり、その垣根は意外とボーダーレスです。
本編内には挙げていませんが、トッパンの人形絵本と同時期に発売されていた「エンゼルブック」の人形絵本を手がけていた『たくみ工房』(代表:大久保信哉)は、シバプロと並走するようにコマーシャルを多数制作していました。そして持永さんとともに「ピノキオの新しい冒険」の撮影も行っています。
1960年代
さて、『シバ・プロダクション』は時流に乗って大発展を遂げ、内藤楊子さんや安藤映子さん、園哲太郎さん、見米豊さんといった人材を増やしますが、コマーシャルでアニメーションが使われる事自体が1960年代中盤には減っていってしまいました。
実写コマーシャルの制作技術が確立したためです。そのためコマ撮りのスタッフは商品カットの特殊撮影などに回ることもあり、その実力を発揮する機会が少なくなります。よって、シバ・プロから『学研』が制作するコマ撮りアニメーションに参加していった人もいます。川本さんはアニメーター、ディレクター、後進の育成者としての激務に体が蝕まれるのを感じ1963年に退職。イジィ・トルンカさんに会いに1年間チェコへ渡り、人形とは何かを学びました。
『人形映画製作所』は1960年にアメリカの『ビデオクラフト・インターナショナル』通称『ランキン・バス プロダクション』の依頼で制作した「ピノキオの新しい冒険」(1961年)から、社名を『MOMプロダクション』に変えます。その作品制作があまりに大変だったため、これまでアニメーション未経験の人達も一気にかき集めて制作した事で人形アニメーションに携わる人が増えます。
「おこんじょうるり」(1982年)などで知られる岡本忠成さんもその一人です。
岡本忠成さんは日本大学芸術学部の卒業制作でコマ撮り作品を発表しています。今では学校で作る事が普通なのでその最初期の事だと考えて良いのかもしれません。岡本さんがコマ撮りを志したきっかけはイジィ・トルンカさんの作品だったそうですが、コマーシャルなどを通じてコマ撮りを見る機会が増える事で、技術に挑戦するハードルは世間的に下がっていたのではないかと思います。
ちなみに“小型映画”の自主制作自体は必ずしも珍しいものではありませんでした。
1960年代中盤まで『MOMプロダクション』はランキン&バスの「ウィリー・マックビーンと魔法の機械」(1963年)「ルドルフ赤鼻のトナカイ」(1964年)「マッド・モンスターパーティ」(1966年)などを手掛けますが、60年代後半になると持永さんが『MOMプロダクション』を離れます。
ところで『MOMプロダクション』が制作したランキン&バスの「ピノキオの新しい冒険」は、1963年にシスコ製菓の「シスコン王子」(シスコーン王子)と併せてフジテレビで放送されました。「シスコン王子」は日本初のコマ撮りテレビシリーズと言われます。それを制作したのは『スタジオKAI』と言い、指揮は浅野龍磨さん。浅野さんは飯沢さんや持永さんたちが制作した「ビールむかしむかし」(1956年)に関わったり、『三笠映画社』で人形アニメーションの「羅生門」(1963年)を作ったりした方です。ちなみに浅野さんのお兄さんの浅野孟府さんは前述の「かぐや姫」で人形アニメーション(置き換えと言われる)用の人形を制作したといいます。
「シスコン王子」にはアニメーターとして及川功一さんや真賀里文子さん、岡本忠成さんも参加したそうです。*
さらに「シスコン王子」の関わりでは脚本と一部演出を手がけた高橋克雄さんを忘れてはいけません。高橋さんは大阪万博などに携わったほか、1977年に「野ばら」という陶器を使用したコマ撮り作品を手掛けました。現在、御息女の高橋佳里子さんが作品の情報発信を行なっています。
*及川功一さん曰く、スタジオKAIはシスコン王子のために作られたスタジオとのこと。この作品については藤子不二雄ファンサークル ネオユートピアの会報誌第56号で詳しく解説されています。制作に関して謎の多い作品です。
また、上に挙げた及川功一さんも忘れてはいけない名アニメーターです。持永さん、岡本さん、真賀里さんとは「ピノキオの新しい冒険」(1961年)で出会い、「シスコン王子」(1963年)にも参加。川本喜八郎さんとは「おかあさんといっしょ」オープニング(1966年)、「花折り」(1968年)「犬儒戯画」(1970年)で仕事を共にされました。さらに70,80年代にかけてかなりの数のコマ撮り作品に関わられたレジェンドの一人です。
<1960年代に関して>
1953年にテレビ放送が始まり、テレビコマーシャルの時代に突入。50年代末から60年代初頭はアメリカのUPAに倣った作品が多く、動きのリズムもリミテッドアニメーションをうまく活用していました。
なかなか輸入されなかったチェコアニメーションは1950年代半ばからヘルミーナ・ティールロヴァーさんやカレル・ゼマンさん、ブジェチスラフ・ポヤールさんといった方々の作品が入るようになり、1959年にはトルンカの人形展も開かれます(でもトルンカの作品はなかなか国内で上映されません)。ただし一般的だったかというとどうなのでしょう。世間的にはレイ・ハリーハウゼンさんが手掛けたアメリカの特撮映画の方が映画館に見に行きやすかったのではないかと思います。
そして60年代初頭にわっと増えたコマ撮りを使用した作品(コマーシャルを含む)はテレビ放送の進化とともに急激に萎む一方で、『MOMプロダクション』や『学研』といった会社組織でのアニメーション制作がコマ撮り業界を支えていきました。
もう一つ。さらりと書きましたが、『ビデオクラフト・インターナショナル』が『シバプロダクション』や『MOMプロダクション』以外にも手描きの分野で日本にアニメーションを発注した事は、現在のアニメーションに多大な影響を与えています。これは日米合作史にもつながります。
*ついでに。
何を作品とするのか?つまりアニメーション作家が自分のオリジナルを制作したものと、企業に属した人が仕事で制作したものを同列にしていいのか?というのは、昔から取り上げられる話題です。この文章の中ではそれらを特に区分していません。あくまでもコマ撮りという表現を用いたものが作られた流れを書いています。