日本のコマ撮りアニメーション 昭和(戦前〜1950年代)

平成〜令和までの流れを記す前に、まずどのような経緯でコマ撮り・人形アニメーションが発展していったのか。どのような機会に作品を見る事が出来たのかを記します。
*便宜上()内のお名前は敬称略としています。
*最初期は黒板にチョークで描いていくコマ撮りアニメーションもありますが、手描きなので省きます。

戦前(1920年代〜30年代
コマ撮り(人形、クレイ、切り紙など)の歴史映画の黎明期から始まります。
まずトリック撮影の一種として捉えられたコマ撮りは、例えばお化けホテル」(1906年)「プリンセス・ニコチン」(1909年) などで用いられました。(両作品ともに監督:ジェームズ・スチュート・ブラックトン)
そして日本でも1908年には「怪談新一ツ家」(原題はLa Maison Ensorcelée」 監督:セグンド・デ・チョーモン)が紹介されています。ただしこの辺りの作品は人形を動かすのではなく、静物を動かすことが主です。
人形を用いた作品としては「ロストワールド」(日本公開:1925年 特殊効果:ウィリス・オブライエン/監督:ハリー・O・ホイト)や「キングコング」(1933年特殊効果:ウィリス・オブライエン/メリアン・C・クーパーアーネスト・B・シュードサック)が一般上映されています。
ロストワールド」公開時期の書籍コマ撮り(ストップモーション)は無機物動いているように見せる手法と記されていて、人形の中には針金やヒューズが入っているとされています。そして動きを変えながら一枚づつ撮影するとも記されているので、シンプルながら撮影方法は映画に興味をもつ人々に伝わっていたように思います。
ただし「ロストワールド」や「キングコング」に対する日本での主な関心は恐竜や巨大なゴリラ仕掛ではなく、どのようにミニチュアを実写と合成しているかという合成技術の解説に偏っていて、コマ撮りには関心が払われていないような印象です。
よって、具体的なアーマチュア(人形関節)の作り方などが記されたものが日本であったのか定かではありませんが、1930年代にアメリカでは人形の構造や作り方を紹介する雑誌や展示会が行われていたそうです
後に"オブライエンの弟子”として「シンドバッド・シリーズ」などで活躍するレイ・ハリーハウゼンさんはそのようなところから技術を学びました。
*「ロストワールド」「キングコング」のモデル造形はマルセル・デルガドさん。

映画史において象徴的なそれら2作品はストップモーションを用いたエンターテインメントとして紹介されて劇場公開している一方、フランスの「魔法の時計」(日本公開:1930年監督:ラディスラフ・スタレヴィッチ)や、切り紙(カットアウト)アニメーションを用いたドイツの「アクメッド王子の冒険」(日本公開:1929年 監督:ロッテ・ライニガー)は人形映画、教育映画、前衛映画という括りで紹介されています。こちらは主に学校やホールで上映されていました。
つまり、現在まで続くアートと商業という区分けは今から100年ほど前のこの頃からすでにあったと言えると思います。


さて、日本で作られた作品では大藤信郎さんによる千代紙(切り紙/カットアウト)アニメーションや、荒井和五郎さんによる影絵のアニメーションがあります。さらに人形を用いた作品では荻野茂二さん乾孝さんのお名前が挙げられます。萩野さんの「FELIXノ迷探偵」(1932年)はフィリックス・ザ・キャットの人形を用いていて、現在にも通じるフィギュアコマ撮りとも言えるのではないでしょうか。
そして劇場映画では「かぐや姫」(1935年 監督:田中喜次)があります。「かぐや姫」の後半に登場する牛車は人形の置き換え式で、後に特撮の神様と呼ばれる円谷英二さんや「くもとちゅうりっぷ」で知られる政岡憲三さん、彫刻家の浅野孟府さんなどが関わっています。しかし「キングコング」のような本格的なコマ撮りを用いた映画は作られておらず、さらに戦中・戦後になると人形を用いたコマ撮りの話題は日本から一度消え去ってしまいます。

戦後(1950年代)
コマ撮りの復活は1953年に持永只仁さんが中国から帰国したことで起こります。

まずその前夜の事を少し記します。人形アニメーション復興の起点になったのは、朝日新聞社の「アサヒグラフ」編集長や劇作家だった飯沢匡さんです。飯沢さんは人形劇や人形アニメーションに強い興味を持つ方でした。その飯沢さんに見出されたのが川本喜八郎さんです。川本さんは幼少期から人形制作を行なっていて、終戦後は東宝に入社して美術部に入ります。しかし東宝争議の末に会社をクビになった川本さんは美術監督の松山崇さんの紹介で「アサヒグラフ」の「玉石集」で人形を用いた挿絵を担当したり、人形を売って生計を立てていました。飯沢匡さんは「玉石集」の人形を見て川本さんに興味を持ち、アサヒビールのキャラクター「ほろにがくん」の人形制作を依頼。さらに文学座の芝居の人形制作を依頼するなどして関係性を深めていきました。そのようなことから飯沢さんと川本さん、そしてデザイナーであり挿絵画家の土方重巳さん、カメラマンの隅田雄ニ郎さんの4人による制作グループ『人形芸術プロダクション(通称:NGP)』が設立されました。NGPは人形と舞台セットを用いたトッパンの人形絵本を制作して好評を博します。
1952年、川本さんは飯沢さんに連れられて税関の試写室でイジィ・トルンカさんの「皇帝の鶯」を目にします。その美しさに魅了された川本さんは人形アニメーションを作ってみたいという夢を持ちました。
そのような最中の1953年8月、持永さんが帰国します。
*ちなみにこの時代、チェコスロバキア(当時)と国交が再開していないことや、国の映画輸入の政策方針によって“チェコアニメ”はまだほとんど日本国内に入ってきていません。

持永さんはもともと瀬尾光世さんに教わり、日本初のマルチプレーン撮影台の開発も行った手描きアニメーションのエキスパートでした。しかし終戦間際に中国に渡って満州映画協会(満映)に入ります。ところがその直後に終戦を迎え、混乱期に巻き込まれた持永さんは中国の映画人や満映にいた日本人の監督やスタッフと共に内戦を避けながら中国東北部へ移動、『東北電影製片廠』を設立します。そこで「民主東北」というニュース映画の中に操り人形劇を用いた映像を撮る事を求められます。でも人形が上手く扱えなかったので中国の人形劇を参考にしつつ『コマ撮り』で撮影する事を思いつきます。そしてヒューズを用いた人形を作り「翻身年」(1947年)でコマ撮りを実践しました。そのわずか30秒程度の短い作品が戦後の日本にコマ撮りアニメーションをもたらすきっかけになります。持永さんは続いて依頼された作品「皇帝夢」(1947年)ではボールジョイントを利用した人形関節に挑戦します。その作品が中国初の人形アニメーション映画でした。持永さんはその後、『上海電影製片廠の美術組』(現在の『上海美術映画製作所』)設立に携わり、数本の作品に参加して中国のアニメーション人材の育成に取り組みました。しかし自らの体調不良や、中国の映画は中国人の手によって発展させるべきであるという考えから帰国を決断。1953年8月に帰国して田無の引揚者住宅に居を構えます。

飯沢さんは持永さんの帰国を知って『NGP』に持永さんを招聘。1953年の冬にアサヒビールのPR映画「ほろにがくんの魔術師」を作りました。それは1954年初旬、日本テレビの「ほろにがショー」の合間にも放送されたようです。したがってテレビコマーシャルと言っていいと思います。同時にこれが日本で初めて制作された人形アニメーションを用いた企業PR作品と言われます。
川本さんはこの作品でアシスタントを務め、すっかり人形アニメーションの世界にはまってしまいます。

さて1954年には現在でも新作が作られる「ゴジラ」の第1作目が公開されています。「ゴジラ」は「キングコング」に影響を受けた円谷英二さんが人形アニメーションで制作を試みようとしたそうです。しかし制作期間の短さから着ぐるみによる特撮にしたと言われます。それが功を奏した面は多くあると思いますが、もし人形だったらどうだったでしょうか。「ゴジラ」では数カットだけコマ撮りを用いた場面があります。でも動きのタイミングの取り方などを見る限りでは、もし制作期間が倍あっても厳しかったのではないか?と感じます。円谷さんは1953年(「ゴジラ」以前)の雑誌記事で、コマ撮りに関して「漫画映画のように1コマづつ撮影する」といったことを述べられているので当然方法は理解されているし、1935年の「かぐや姫」にも関わり、置き換え方式のコマ撮り理解していたと思います。しかし「ゴジラ」が企画された時点で日本製の本格的な人形アニメーションは「ほろにが君」の3本のコマーシャル(「ほろにが君の魔術師2種」「ほろにが君テレビの巻」)だけだった可能性があり、たとえ「キングコング」を研究していても、もし人形でゴジラを撮影しようとすれば持永さんと『NGP』を頼る以外になかったかもしれません。
*パぺトゥーン(置き換え式のコマ撮り)で作品を作り、戦後は「宇宙戦争」などを手がけたアメリカのジョージ・パルさん。パペトゥーンは戦前から日本でも知られていて、円谷さんは1962年に渡米した際、ジョージ・パルさんと会い、語り合ったそうです。


『NGP』に技術を伝えた持永さんは、1955年に『電通映画社』の協力のもと自らのスタジオ『人形映画製作所』を設立して、コマ撮りアニメーションを用いた敎育映画を制作していきます。ちなみにその頃の持永さんを支えた一人が、かつて「かぐや姫」を監督した田中喜次さんでした。そこで1956年に制作された「瓜子姫とあまのじゃく」は日本初の人形アニメーション映画となりました。さらに同年には2作目の「五匹の子猿たち」を制作するとともに、飯沢さんが脚本・演出を手がけたアサヒビールのPR映画「ビールむかしむかし」のアニメーターも務めます。その作品には千代紙映画の大藤信郎さんも参加しています。
さらにさらに「ビールむかしむかし」が終わるとすぐに「ちびくろさんぼのとらたいじ」の制作に入ります。
それにしても持永さんの作品履歴を検索していただければ分かりますが、短期間に多くの数の作品を手掛けています。それも全てがハイクオリティ。長年堪えていた創作欲求が一気に噴出した感じだったのではないかと思います。その作品は全て子供達に向けられたものでした。
さて、川本喜八郎さんも『NGP』と掛け持ちしながら持永さんの元で学んで(主に持永さんの作品では人形制作を担当)腕を磨きました。
1958年なると飯沢さんたち『NGP』は森邦資さんを加えて、コマーシャル制作会社の『シバ・プロダクション』を設立。「アサヒビール」「ミツワ石鹸」などのテレビコマーシャルを作ります。そこで川本さんはメインアニメーターを務めました。
ここでのCM人形のデザインは土方重巳さんです。よく勘違いされるのですが、川本さんは人形制作をしているけれどデザインはしていません。加えて、『シバプロ』はコマーシャル会社ですから、同じCMでも別のアニメーターが動かしているという事もあります。
*「ミツワ石鹸」について細かいことを言うと、テレビコマーシャルで3人娘(ミー・ツー・ワー)が登場するのは多くの媒体に書かれている1954年ではなく1958年以降です。それ以前のシバプロ制作のCMは「ペンキ騒動」や「ミツワテレビ童話」です。加えて、動画サイトで時折あがってくる、バトンを振る3人娘とミツワプラスがセットになったコマーシャルは1965年にACC CMコンテストで受賞したもので、ディレクターは大熊隆文さんでアニメーターは小林孝司さんが担当です。よって小林さんのアニメート技術にもきちんと光を当てるべきではないかという気持ちがあります。その頃には川本さんはシバプロを退社していて人形制作も別の人です。


ちなみに持永さんは『学研』の神保まつえさん達にも人形アニメーションの方法を指南したとのこと。
人形映画製作所が1959年に制作した「王さまになったきつね」には、今でも現役の真賀里文子さんが美術アルバイトとして初参加。真賀里さんは初めてスタジオを見学した時に、その創造の世界の美しさに感動したそうです。

戦前から50年代に関して>
ここまでで触れておきたいのは、持永さんが帰国する前の日本でも、コマ撮りや人形アニメーションの存在知られていたという事です。
戦前公開の「キングコング」はヒットして円谷英二さんに強い憧れを与えました。「魔法の時計」は大阪毎日新聞社が大々的に宣伝を行い、全国各地で上映を行った結果、まだコマ撮り制作を行う以前の持永只仁さんや飯沢匡さんもそれを目にして記憶に留めています。乾孝さんもその技術に悔しがる記述を残しています。日本のコマ撮りの歴史で言うならば、「キングコング」よりも「魔法の時計」の方が強い影響を与えたと言えます。
さらに、人形の構造にはあまり言及されていないものの、いくつかの書籍ではコマ撮りの撮影手法が細かく説明されています。つまりコマ撮りは決して未知の技法ではありませんでした。
ついでに。1934年の幻の作品「大仏廻国」もコマ撮りを用いていたという記述が当時の書籍にありますが、その真偽は如何に。

そして戦後になっても、大藤信郎さんは千代紙アニメーションを作り続けています。
アメリカの「猿人ジョー・ヤング」(アメリカ公開1949年 特殊効果:ウィリス・オブライエン、レイ・ハリーハウゼンほか)持永さんが帰国する1年前公開されていて、飯沢匡さんは強く推薦していました
国交が無くわずかにスチルが入ってくる程度ではあったものの、チェコスロキアで人形アニメーションが作られていることは一部で知られていて、それをどうにかして見てみたいという渇望が生まれていました。
だから誰が人形アニメーションを始めてもおかしくはありませんでした。でも1953年まで時間がかかったのは映画産業でも公職追放があって、戦時中の教育映画関係者を含めて映画産業に従事できなかったこと。そして1953年にテレビ放送が始まったことはとても大きかった。
そのちょうど良いタイミングで持永さんが帰国しました。
だから持永さんたちは、知られてはいたけれど日本では本格的に作られていなかった技術に光を当てたとも言えます。しかし持永さんの技術は中国滞在中持永さんが独自に試行錯誤したものであり、チェコやアメリカから教えを受けたのではありません。
ところが持永さんの制作した人形関節はチェコから伝わったものとされた時期がありました。
その発端には持永さんを雑誌等で紹介した飯沢さんの勘違いにあるのですが、実際のところ持永さんが人形関節を作る際に参考にしたのはチェコの作品ではなく、同じく『東北電影製片廠』にいた木村荘十二さん所有のフランス製デッサン用モデル人形2体だったそうです(それがボールジョイント式だった可能性)。
それでも当時のチェコと中国の間には国交がない時期から文化交流がありました。そのため持永さんは中国に渡ってくるチェコのアニメーション映画の写真や人形から学んだと述べています。1949年頃には「皇帝の鶯」の人形を直に見ているようです。よって最初の人形関節は独自だったとしても、間接的にチェコの人形アニメーションの技術も持永さんは日本に伝えたと言えます。しかしそれで持永さんの功績が軽くなる事はなく、むしろ全てをオリジナルで完結させずにチェコからも知識を吸収した事は人形アニメーションの伝導者としての見識の深さを示す事だと思います。

ところで、コマ撮り(人形)アニメーションは人形劇と一緒にされて「人形映画」と記される事が多くありました。本来、どうやって撮影したのか不思議に思われるはずのコマ撮りは、昔から糸繰りやギニョールの人形劇の存在があったため、違和感なく受け入れられててしまう下地があったと想像します。ですからコマ撮りだと思ったら人形劇だったという事も古い作品には多いです。言わば、違いを気にされていなかった。
しかし人形劇に関係していた人たちが後に人形アニメーションに関わる事もあり、その間に垣根がないのも事実です。例えば人形座には田畑(保坂)純子さん、田畑精一さん、小室一郎さんがいました。
本編内には挙げていませんが、トッパンの人形絵本と同時期に発売されていた「エンゼルブック」の人形絵本を手がけていた『たくみ工房』(代表:大久保信哉)は、『シバプロ』と並走するようにコマーシャルを多数制作していました。そして持永さんとともに次に記す「ピノキオの新しい冒険」の撮影も行っています。

ちなみに「ピノキオ〜」も放送された時には新聞に「ブーフーウー」や「チロリン村とクルミの木」と同じく人形劇と書かれていて、1960年代になっても人形アニメーションに対する認知の低さが伺えます。