日本のコマ撮りアニメーション 昭和(1960年代)

1960年代
50年代後半から60年代初頭は手描きや人形を用いたテレビコマーシャルが大量に作られました。コマ撮りの技術は日本中に広がり、関西のプロダクションもコマ撮りを手がけます。
さて、数多誕生した会社の中でも抜きんでいた『シバ・プロダクション』は時流に乗って大発展を遂げ、内藤楊子さんや安藤映子さん、園哲太郎さん、見米豊さんといった人材を増やしますが、60年代に入るとコマーシャルで人形だけでなくアニメーション使事自体が減ってしまいました。
理由は実写コマーシャルの制作技術が確立したためです。そのためコマ撮りのスタッフは商品カットの特殊撮影などに回ることもあり、その実力を発揮する機会が少なくなっていきます。そして『シバ・プロダクション』は人形アニメーションを主に扱う制作会社から総合的なアニメーション制作会社へと変わっていきました。よって、人形アニメーションを続けたいスタッフの一部は退職をし、『学研』が制作する作品に参加していった人もいます。川本喜八郎さんはアニメーター、ディレクター、後進の育成者としての激務に体が蝕まれるのを感じ、1963年春に『シバ・プロダクション』を退職。憧れのイジィ・トルンカさんに会いに1年間チェコへ渡り、人形とは何かを学びました。「天使ガブリエルと鵞鳥夫人」(1964年)の中でわずかですがアニメートをしているカットがあります。また、当時のゴッドワルドフ(現:ズリーン)にスタジオを構えていたトルンカさんの弟子のブジェチスラフ・ポヤールさんと親交を深めるなど、後年国際的に活躍する礎を築きました。

一方で『人形映画製作所』は「王さまになったきつね」以降経営が悪化していました。作品は上質で素晴らしいのですが流通が少なく、主な上映環境が学校での巡回上映というところで利益が上がらなかったことが大きく影響したようです。コマーシャルの仕事も請け負っていましたが、持永さん自身にはやはり子供たちのために人形アニメーションを作るという信念があったようです。そのため半分休業状態に陥っていたところ、1960年にアメリカの『ビデオクラフト・インターナショナル』通称『ランキン・バス プロダクション』が『電通』→『電通映画社』を通じて人形アニメーションのシリーズの依頼をしてきました。何度も固辞した持永さんでしたが、この作品だけという強い説得で「ピノキオの新しい冒険」(1961年)に着手することになります。そして『人形映画製作所』は制作を前に解散し、社名を『MOMプロダクション』に変えます。依頼された「ピノキオの新しい冒険」は5分の作品を130本制作するというあまりにも大変な内容だったため、これまでアニメーション未経験の人達も一気にかき集めて制作した事で人形アニメーションに携わる人が増えます。

「おこんじょうるり」(1982年)などで知られる岡本忠成さんもその一人です。
岡本忠成さんは日本大学芸術学部の卒業制作でコマ撮り作品を発表しています。今では学校で作る事が普通なのでその最初期の事だと考えて良いのかもしれません。岡本さんがコマ撮りを志したきっかけはイジィ・トルンカさんの作品だったそうですが、コマーシャルなどを通じてコマ撮りを見る機会が増える事で、技術に挑戦するハードルは世間的に下がっていたのではないかと思います。
ちなみに“小型映画”自体は珍しいものではありませんでした。

ところで「ピノキオの新しい冒険」だけという約束で制作を請け負った持永さんでしたが、全作品の納品間際にスタジオが焼けてフィルムも燃えてしまうという惨事に見舞われます。そのためせっかく撮り終えた作品をまた撮り直す羽目になり、負債を負うことになってしまいます。さらに『ビデオクラフト』と『電通』は人形アニメーション作品を5年間共同制作するという契約を締結したため、持永さんは現場から離れることが出来なくなりました。そこで1960年代中盤まで『MOMプロダクション』は『ビデオクラフト』の「ウィリー・マックビーンと魔法の機械」(1963年)「ルドルフ赤鼻のトナカイ」(1964年)「マッド・モンスターパーティ」(1966年)などを手掛けます。しかし60年代後半になると要である持永さんが『MOMプロダクション』を離れます。それまでアニメーション制作以外に会社の難題にも対応されてきた持永さんもとうとう限界に達してしまいました。その結果、持永さんは人形アニメーションから一度離れて、慣れ親しんだ中国との仕事を行うことになりました。まだ老境には遠いこの時に第一線を退いたため、その名前がやや後世に伝わらなくなってしまったと言えます。
しかしその間に持永さんの現場で学んだ多くのアニメーターが人形アニメーションを現在につなぎました。だから持永さんこそが戦後日本の人形アニメーションの起点だと言って間違いはありません。

さて、『ビデオクラフト』の依頼で『MOMプロダクション』が制作した「ピノキオの新しい冒険」は1961年にアメリカで大きな話題になりましたが、日本国内では1963年にシスコ製菓の発売するフレーク「シスコーン」の販促番組「シスコン王子」と併せてフジテレビで放送されました。「シスコン王子」は日本初のコマ撮りテレビシリーズと言われます。それを制作したのは『スタジオKAI』と言い、指揮は浅野龍磨さん。浅野さんは飯沢さんや持永さんたちが制作した「ビールむかしむかし」(1956年)に関わったり、『三笠映画社』で人形アニメーションの「羅生門」(1963年)を作ったりした方です。ちなみに浅野さんのお兄さんの浅野孟府さんは前述の「かぐや姫」で人形アニメーション(置き換えと言われる)用の人形を制作したといいます。
「シスコン王子」にはアニメーターとして『MOMプロダクション』で働いていた及川功一さんや真賀里文子さん、岡本忠成さんも参加したそうです。
さらに「シスコン王子」の関わりでは脚本を手がけた『東京中央人形劇場』の高橋克雄さんを忘れてはいけません。高橋さんは「シスコン王子」終了後に「ピーターうさぎのおるすばん」という作品で初めてコマ撮りアニメーションの挑戦。その後、大阪万博などの映像制作に携わったほか、1977年に「野ばら」という陶器を使用したコマ撮り作品を手掛けるなど活躍されました。現在、御息女の高橋佳里子さんが作品の情報発信を行なっています。
*及川功一さん曰く、スタジオKAIは「シスコン王子」のために作られたスタジオで、「ウィリー・マクビーンと魔法の機械」制作後に設立しました「シスコン王子」については藤子不二雄ファンサークル  ネオユートピアの会報誌第56号で詳しく解説されています。シスコーンの広告戦略の一環として制作されました。

もう一人、上に挙げた及川功一さんも忘れてはいけない名アニメーターです。持永さん、真賀里さんとは「ピノキオの新しい冒険」(1961年)で出会い、「シスコン王子」(1963年)にも参加。川本喜八郎さんとは「おかあさんといっしょ」オープニング(1966年)、「花折り」(1968年)「犬儒戯画」(1970年)で仕事を共にされました。さらに70,80年代にかけてかなりの数のコマ撮り作品に関わられたレジェンドの一人です。

<1960年代に関して>
1953年にテレビ放送が始まり、テレビコマーシャルの時代に突入。50年代末から60年代初頭はアメリカのUPAに倣った作品が多く、動きのリズムもリミテッドアニメーションをうまく活用していました。
なかなか輸入されなかったチェコアニメーションは1950年代半ばからヘルミーナ・ティールロヴァーさんやカレル・ゼマンさん、ブジェチスラフ・ポヤールさんといった方々の作品が入るようになり、1959年にはトルンカさんの人形展も開かれます(それなのにトルンカ監督作品はほぼ国内で上映されません)。
ただし一般的に知られていたかというとどうなのでしょう。世間的にはレイ・ハリーハウゼンさんが手掛けたアメリカの特撮映画の方が映画館に見に行きやすかったのではないかと思います。
そして60年代初頭にどっと増えたコマ撮りを使用した作品(コマーシャルを含む)は、テレビ放送の進化とともに急激に萎む一方で、『MOMプロダクション』や『学研』といった会社組織でのアニメーション制作がコマ撮り業界を支えていきました。

大事なことです。
さらりと書きましたが、『ビデオクラフト・インターナショナル』が『シバプロ』や『MOMプロダクション』以外にも手描きの分野で日本にアニメーションを発注した事は、現在のアニメーションに多大な影響を与えています。これは日米合作史にもつながる話で、アメリカの仕事を受注するために設立された会社『トップクラフト』は、後に宮﨑駿監督作品「風の谷のナウシカ」を製作することになります。日本のアニメーションを語る時、必ずと言っていいほどウォルト・ディズニーさんが影響を与えたと言われますが、仕事の面で言えばアーサー・ランキン.Jrさんがいなければ全く違う世界になっていた可能性があります。
*『ビデオクラフト』は持永さんの会社(MOM)に仕事を発注した事で知られますが、まず1958年に複数のコマ撮りを行う会社にコマーシャルを発注しています。その中の一つに『シバプロダクション』もありました。『ビデオクラフト』はそれまでアニメーションにはほとんど関わりのない会社でした。特に人形アニメーションについて1958年以前は門外漢だったようです。しかし社長のアーサー・ランキン.Jrさん曰く、日本に発注すると低価格で高品質の作品が出来上がることから、その後、人形アニメーションだけでなく、手描きアニメーションを東映などに発注していきます。この仕事はアメリカの下請けとしてあまり大々的に語られることは少ないけれども、日本のアニメーションの発展は『ビデオクラフト』無しにはあり得なかったのです。

ついでに。何を作品とするのか?つまりアニメーション作家が自分のオリジナルを制作したものと、企業に属した人が仕事で制作したものを同列にしていいのか?というのは昔から取り上げられる話題です。この文章の中ではそれらを特に区分していません。あくまでもコマ撮りという表現を用いたものが作られた流れを書いています。