日本のコマ撮りアニメーション 昭和(1970年代〜1980年代)

持永さんが『MOMプロダクション』を離れ後は、それを引き継いだ河野秋和さんが『ビデオ東京プロダクション』として作品を発表します。例えば「てんまのとらやん」(1971年)などです。『ビデオ東京プロ』としての『ビデオクラフト』との仕事もしばらく続きました。「ルドルフ赤鼻のトナカイ」(1964年)とは異なるルドルフ作品「赤鼻のトナカイ ルドルフ物語」(1977年)もその一つ。『MOMプロ』にいた田畑博司さんや大町繁さんが関わられています。

1960年代から1970年代には映画の中やテレビ番組の中で特撮としてコマ撮りが使われています。

ただしコマ撮りを主体にした毎週のアニメーション番組制作は厳しく、コマ撮りは作品内で限定的に使用されることが主でした。

そのような中で『ビデオ東京プロ』の「ちびっこカムのぼうけん」(1976年 監督:河野秋和)、真賀里文子さんが携わったサンリオ「くるみ割り人形」(1979年 監督:中村武雄)や川本さんの「蓮如とその母」(1981年)は珍しい人形アニメーション単独の長編作品だったと思います。

さて、川本喜八郎さんと岡本忠成さんが2人で行った「パペットアニメーショウ」(72〜76年、79年 、80年)は、2人の作家として最も脂の乗った時期と言えます。川本さんの代表作である「」「道成寺」「火宅」などの作品は70年代の10年間で制作されています。岡本忠成さんの「花ともぐら」「ちからばし」「虹に向かって」などが70年代の作品です。


1978年に手塚治虫さんを会長として日本アニメーション協会が設立されました。新宿紀伊國屋で行われたワークショップで創作意欲を掻き立てられた当時の学生や若手アニメーション制作者も多かったといいます。そして1980年には「12人の作家によるアニメーションフィルムの作り方」という書籍が発行され、その中で川本喜八郎さんや岡本忠成さんによる制作方法論が掲載されています。
その1980年代になると「スターウォーズ」効果もあったのか、日本映画の中でのコマ撮りもいくつか印象に残る作品があります。特に真賀里さんが手掛けられた映画「帝都物語」(1988年)の式神のコマ撮りのインパクトは大きかったです。
真賀里さんはテレビ番組や映画以外にも本当に数多くのコマーシャルを手掛けていらっしゃいますが、中でも80年代から90年代にかけてCMディレクターの李泰栄さんの監督したコマーシャル、たとえば「サントリーオールドペリエ」(1983年)や「ホンダ シティ ターボⅡ」(1984年)などで作品世界を彩るアニメーションを作られた事が有名です。
女性のアニメーターで言えば田中ケイ子さんも複数のコマ撮りCMを手掛けています。
他にもクレイを用いたイタリアの『PMBB社』による「ヤクルトミルミル」のコマーシャルもありました。『PMBB社』は「東京海上火災」のコマーシャルも制作。
そしてその頃、峰岸裕和さんや森まさあきさんが若手としてコマーシャルの現場で活躍されていました。
*あくまでも個人的にですが、真賀里さんについては「漂流教室」(1987年)「孔雀王」(1988年)のコマ撮りも記憶に残っています。

*峰岸さんの履歴についてはdwarfこま撮り会員制ファンクラブ「dwarf²(ドワドワ)」でご本人が語られているのが最も正しいです。

余談ですが、1980年代はハリウッド発の特撮映画の全盛期だったと思います。1970年代に幼少期を過ごした人はレイ・ハリーハウゼンさんに。1980年代に幼少期を過ごした人はフィル・ティペットさんやジム・ダンフォースさん、デヴィット・アレンさんに影響を受けてコマ撮りを始めたという場合も多いと思います。さらにいうと現在とは異なり、水曜日や金曜日の夜にテレビで映画が放送されたり、昼間や深夜にもかなり映画がテレビ放送される機会がありました。そういう時にハリーハウゼン作品を目にする事も多くありました。だから、現在テレビは斜陽の時代かもしれませんが、テレビで映画を流すのは将来のクリエイターに向けた種蒔きになっていると思っています。

さて、岡本さんはおこんじょうるり」(1982年)、NHKみんなのうた「ロバちょっとすねた」(1983年)「メトロポリタンミュージアム」(1984年)など、川本さんは1988年に不射之射」「セルフポートレート」と、80年代に入っても継続的に作品を作ります。

まだまだ名前を挙げたい方や作品は多いのですが、ここまではまだ前段なので割愛します。
大雑把な説明ですけれども、このような時代を経て、時代は昭和から平成に移っていきます。
ようやく次からが本題になります。

<80年代までに関して>
持永さんがアニメーションから離れた後は、これまで挙げたように河野秋和さんの『ビデオ東京プロ』の作品や、中村武雄さんと真賀里文子さんの仕事。川本喜八郎さん、岡本忠成さんの作品や仕事。そして学研の作品というのが大きく目立ち、加えて、会社なので必ずしもどなたかの仕事かわかりませんが、()白組()アニメーションスタッフルームの手掛けたコマーシャルなどが徐々に目に入るようになります。

ところで、大きくアニメーション全体でいうと、本当は60年代以降の“実験アニメーション”があります。60年代より前から8ミリフィルムのコンテストがあり、実写、アニメーション問わず活発に発表をしていた人たちがいました。日本アンダーグラウンド・センターが主催してノーマン・マクラレンさんやイジィ・トルンカさんの作品を上映する事もありました。後のイメージフォーラムなどの中でコマ撮りの手法を用いた作品も多々ありますが、このまとめの中でそれらをどのような区分にすれば良いのか難しいのが実感です。よってその系譜はかなり割愛していきます。
わずかに記すと、88年に品川区のO美術館(オー美術館)でアニメ進化論「日本の実験アニメの現在」が開催されました。やまむら浩二(当時の呼称)さんの粘土を透過させてコマ撮りした「水棲」や石田卓也さんのクレイアニメーション、飯面雅子さんのサンドアニメーションや、後述するIKIF木船徳光さん石田園子さん、小出正志さんや島村達雄さん、そして実験系として萩原朔美さん、松本俊夫さん、かわなかのぶひろさんなどが出品していました。