日本のコマ撮りアニメーション 平成〜令和(1990年代編)前半

1990年
1989年に元号が平成に変わって1年後の平成2年2月。「おこんじょうるり(1982年)、NHKみんなのうた「メトロポリタンミュージアム」(1984年)などで知られる岡本忠成さんが58歳の若さで亡くなりました。戦後日本の人形アニメーションの祖である持永只仁さんに学び、1960年代から数々のアニメーション作品を発表。川本喜八郎さんと共に行った「パペットアニメーショウ」もアニメーション文化の発展に寄与するものでした。

その盟友・川本喜八郎さんは同年「いばら姫または眠り姫」(原作:岸田今日子)を発表。1963年から64年にかけて学んだチェコ・スロバキア(当時)のトルンカスタジオでチェコのスタッフと共作しました。作品にはアニメーターとして「道成寺」や「火宅」などで川本作品に携わった峰岸裕和さんが参加しています。チェコには川本・岡本作品の撮影に数多く関わっていた田村実さんも同行したとの事。
ちなみに峰岸さんは岡本忠成さんの「南無一病息災」(1973年)のアルバイトで人形アニメーションの現場に入ったそうです。

岡本忠成さん、川本喜八郎さんは共に持永さんの薫陶を受けたアニメーション作家ですが、もう一人、持永さんのお弟子さんとして外すことの出来ない真賀里文子さんがコマーシャルや映画の分野で活躍していました。今でも記憶に残るこの年のコマーシャルといえば「サトームセン」でしょうか。ジャガーのキャラクターのダンスといえば40歳代以上は思い出すと思います。
他にも「キヤノン・映像ワンダーランド」はクリーチャーの登場する不思議なコマーシャルでした。(ナレーションは俳優の内藤剛志さんに加えて森まさあきさんの名前が。ご本人曰く「言葉にならない声」を担当したそうです)

ところでコマーシャルといえば佐藤雅彦さん(NHK「ピタゴラスイッチ」など)をはじめとするCMプランナーが活躍されていました。その中でも“三角形の秘密はね〜”のCMソングが耳に残る「ポリンキー」のコマーシャルもコマ撮りでした。その最初のコマーシャルでアニメーターを務めたのは、比較的クレイアニメーションで知られる石田卓也さんです。

また、テレビ朝日で放送された「アフターマン」(著者:ドゥーガル・ディクソン)の特別番組の未来生物のアニメーションも印象深いものです。アニメーターを務めたのは主に岡本作品に携わった長崎希さんと、小杉和次さん。
長崎さんが監督をした作品水仙月の四日」もこの年に完成しています。
さらに島村達雄さんによる「ステラ・ファンタジア(アトラクション映像)(アニメーター:垣内由加利、峰岸裕和)が北九州市にあった「スペースワールド」で見ることが出来ました。島村さんは1960年代から活躍されて、1974年に『()白組を設立しました

ちなみにこの年にはファミリーコンピュータ(ファミコン)の後継機のスーパーファミコンが発売された年であり、その発売を知らせるコマーシャルではコマ撮りのマリオが歌って踊りました。その背景にはCGで作られたスーパーファミコンが映り、段々CGの足音が近づいてきます。

1991年
岡本忠成さんが遺した映像や絵コンテを基に川本喜八郎さんが監修した「注文の多い料理店」(監督:岡本忠成)が完成します。セル画を用いたアニメーションですが、単純な2Dアニメーションとは違うマルチプレーンを用いた表現になっており、岡本さんの新たな表現に向かう開拓心を思うと早逝が非常に悔やまれます。

保田克史さんの「パルサー」(1990年)がTBSで放送された「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」で紹介されました。保田さんは後にNHKプチプチアニメで「ロボットパルタ」を手がけることになります。
森まさあきさんがクレイを用いたとんねるずの「ガラガラヘビがやってくる」のミュージックビデオを制作したのもこの年。森さんは1980年から(株)アニメーションスタッフルームで働き、89年に独立。90年にモリクラフトアニメーションを立ち上げています。この辺りについては東京造形大学の『教員インタビュー』が詳しいです。
さて前年の段に記した、佐藤雅彦さんが手掛けたコマーシャルの一つに湖池屋「スコーン」がありますが、その「キューブ編」で白と茶色の立方体が盤面を移動するアニメーションを、持永只仁さん岡本忠成さん、川本喜八郎さん、真賀里文子さんとも仕事をされてきた及川功一さんが手掛けています。及川さんは他の佐藤さんの仕事にも携わっており、翌年1992年の「ポリンキー」のコマ撮りや「ぽてち」のコマ撮りも手掛けています。
*ちなみに湖池屋「スコーン」の88年のコマーシャル(実写)では、のちにどーもくんをはじめとするキャラクターを産み出す現:dwarfの合田経郎さんのお名前をプロダクション・マネージャーとして見つける事が出来ます。
*ぽてちの造形は斉藤堅さんの「工房けん」が担当。
そして真賀里文子さんはキリンレモンとスーパーマリオの世界が融合した「スーパーレモンワールド」や「少年ジャンプ」のコマーシャルなどでアニメーターを担当。
また、1980年代中盤から活躍し、日本でも知られていたアメリカのクレイメーションの旗手、ウィル・ヴィントンさんが大正製薬「サモン」のコマーシャルを制作。粘土で作られたサラリーマンが踊ったりします。

他にも小杉和次さんが映画「ゼイラム」(監督:雨宮慶太)や「妖怪ハンターヒルコ」(監督:塚本晋也)に参加されたり、まだ映画の中でコマ撮りアニメーションが使われていた時代です今でも使われるストップモーション・アニメーションや、モデルアニメーションという言葉でも表されていました。

1992年
この頃はコマーシャル全盛期と言ってもいいかもしれません。コマ撮りの使用も多く、とても書ききれないのですが、その中でも語り継がれるコマーシャルがこの年に登場しました。日清「Hungryシリーズ(監督:中島信也)です。マンモスなどの絶滅哺乳類が原始人と絡み合うアニメーションは今でもとても楽しく見入ってしまいます。ただしアニメーションは日本製ではなく、アメリカのキオドブラザーズが手掛けています。この作品は日本初のカンヌ国際広告映画祭グランプリの栄冠に輝きました。
他にも、ゲームボーイ用ソフト「スーパーマリオランド2  6つの金貨」はクレイアニメーションで出来ていました。ちなみにマリオシリーズは1988年の「スーパーマリオUSA」や先の1990年のスーパーファミコン発売告知、1991年キリンレモンとのコラボ、1996年「スーパーマリオRPG」2001年「ワリオランドアドバンス  ヨーキのお宝」などのようにコマ撮りを使用したコマーシャルが意外とあります。

さて、コマーシャル全盛期は結局テレビ全盛期でもあるという事ではないでしょうか。森まさあきさんの手掛けた「がじゃいも」(歌とんねるず)が、「ガラガラヘビがやってくる」に続いて人気になりました。
NHKでは「プチクレイ」で石田卓也さんの「もぎもぎ」を放送。番組タイトル通りクレイアニメーションです。山村浩二さんの「カロとピヨププト」も同じ番組で放送されました。「プチクレイ」はこの2年後に始まるプチプチアニメにつながる番組でした。

さらにこの年は持永只仁さんの遺作となる「少年と子だぬき」が完成した年でもあります。『MOMプロダクション』を離れ、中国での技術指導など長いブランクを経て作られた作品は、持永さんの優しく暖かい眼差しを感じる事が出来ます。

1993
海外では「ナイトメア・ビフォア・クリスマス(監督:ヘンリー・セリック)が公開され、「ウォレスとグルミット−ペンギンに気をつけろ!」(監督:ニック・パーク)が完成したこの年、日本では前年にビデオ販売されたスイス生まれの「ピングー」がテレビ放送されます。

コマーシャルの時代は続き、森まさあきさんが手掛けた『出光興産まいどカード』、大貫卓也さんと中島信也さんの『Hungryシリーズ』、中島信也さんが監督した「パルコグランバザール」など。「グランバザール」は藤谷美和子さんが演じたピクシレーションだそうですか、本当に?という驚きがあります。
また、真賀里文子さんがアニメーターを務めた世界初のIMAX人形アニメーション「天までとどけ」が沢航空発祥記念館で上映富山県立山博物館 遙望館では()白組の島村達雄さんによる「新立山曼荼羅絵図」(アニメーター:垣内由加利、峰岸裕和/VFX:山崎貴)を上映。展示映像(特設映像)としてコマ撮りを使用するというのは結構目にします。
真賀里さんは他にもTBS「日立 世界ふしぎ発見!」のタイトルを制作しました。
映画としては「仮面ライダーZO」に登場するクモ女と仮面ライダーの戦闘シーンが実写とコマ撮りで表現されていて、小杉和次さんがアニメーションを手掛けています。

ただし、コマ撮りにとって大きな影響を及ぼす映画が公開されます。「ジュラシックパーク」(監督:スティーブン・スピルバーグ)です。この作品によってCGが急速に発展。あっという間に特に映画業界からコマ撮りがなくなっていきました。7月のニューズウィーク(米)には「コマ撮りの時代は幕を閉じた」とあるのが悲しい。
でもコマーシャルやテレビの分野ではこれ以前からCGが部分的にかなり使われていたと思います。つまり「ジュラシックパーク」のような極度なリアルさがそれまでのCGと比較して驚異的だったのであり、突然CG自体が発現したわけではありません。だから映画界がコマ撮りからCGに置き換わっていった事とは違い、コマーシャルなどの分野ではコマ撮りとCGの共存関係がある程度あったという印象です。
*ただしこれは一視聴者の視点であり、関係者の方の印象としてはまさに「絶滅」だったようです。しかしこの頃にはテレビでCGを目にする事が自然にあり、すでにCG自体は身近な表現だったと思います。

ちなみにこの年には池袋にあったセゾン美術館で「ジョージ・ルーカス展」が開催され、様々な映画で使用された模型などが一挙に公開されました(大阪にも巡回)。この頃はまだハリウッド映画のメイキング展のようなものが行われていました。

1994年
NHK教育(現:Eテレ)で「プチプチアニメ」の放送が始まり、現在も続く保田克史さんの「ロボットパルタ」が発表されます。同じくNHKでは、フルの立体アニメーションではありませんが山村浩二さんの「パクシ」も始まります。また、石田卓也さんが劇場版クレヨンしんちゃん「ブリブリ王国の秘宝」のオープニングでクレイアニメーションを手掛けます。
フジテレビの「ポンキッキーズ」内で「ポストマンパット」の放送が開始。元はイギリスで1981年に作られた作品でした。竹中直人さんの声の印象が残ります。
そして「ナイトメア・ビフォア・クリスマス(監督:ヘンリー・セリック)が、本国から1年遅れ日本で公開されました。

1995
コマ撮りとは関係ありませんがこの年に基本OS「Windows'95」が発表され、パソコンが家庭に普及する時代に突入していきます。この年は1月には阪神淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件やオウム真理教の事件が起き、世紀末の不安感が押し寄せてくる1年でした。
そのような中でNHKプチプチアニメでは、伊藤有壱さんによる“黄色い頭のイモ虫”が騒動に巻き込まれる「ニャッキ!」が始まります。伊藤有壱さんはそれまで『(株)白組』に所属していたり、CGプロダクションの設立に参加していたので、「ニャッキ!」でデジタルからアナログに戻ってきたとも言えるかもしれません。しかし伊藤さんはデジタルの経験を活かし、アナログと融合させた独特な作品世界を創造していく事になります。
もう一つ、プチプチアニメで木村光宏さんの「とこちゃん ちょっきん」という作品もありました。
他にテレビではユーリ・ノルシュテインさんの「話の話」と「霧の中のハリネズミ」を用いた『朝日新聞』のコマーシャルがありました。迫り来る狼がやや怖い印象だったかもしれません。
映画の特撮としてのコマ撮りは消えていきましたが、この年から公開が続いた「学校の怪談」シリーズではコマ撮りが使用されています。美術の方々も普通に映画に参加していますし、人形の方は人形劇や造形美術に関わっていました。

<90年代前半に関して>
コマ撮り自体時代を経て徐々に変化しているのでしょうか
コマ撮りが使われた作品の源流(1950年代)を辿っていくと最初からテレビコマーシャルがあり教育映画がありました。時代が変化していっても仕事は全く変わりません。考えると映画特撮としてのコマ撮りは日本において業界の生命線ではなく非常に息の短い分野だったと思います。一方でコマーシャルと教育番組の2本柱はこの先もずっとコマ撮りを支えていきました。
よって、コマ撮りの歴史を紐解くにはその2つの歴史と並行して見ていく必要が出てきます。

それでも変化という意味では、持永さんから始まった源流の世代やそこで学んだ世代ではなく、全く別のところからコマ撮りを始めた世代がクリエイターとして独り立ちしていった頃が90年代初頭だとも言えます。その世代は70年代末から80年代にかけて大学で自主映画・自主アニメーションを作り、上映会を行なっていた世代(例えばアニメーション80のような)であり、のちに教員となって現在へと続く学生アニメーションを爆発的に発展させた世代です。
彼らはまず仕事ではなく、学校やサークル活動でアニメーションを作り、技術を磨いていきましたそしてアニメーション全体に興味を持ち、集団で知識を分かち合い上映会を繰り返しました。その世代がアニメーションの作り方を変えていったと考えます。
付け加えるならば、その世代に学校で映像を教えたさらに上の世代がいるという事も忘れてはいけません。アニメーションの専門教育(専科、専攻の設立)は2000年代まで待たないと始まりませんが、古くから学校教育はアニメーション文化の発展の役に立っていたのだと思います。『シバ・プロダクション』で川本喜八郎さんが制作した人形をデザインした土方重巳さんは晩年、女子美術大学でアニメーション指導を行う先生でもありました。
*サークル活動も古くは南正時さんが立ち上げた「東海アニメーションサークル」から、関東の「アニメーション80」や「グループえびせん」関西の「DAICON FILM」などがあります。そういったところに所属していた人達が行っていた上映会や会報誌は(書き方は悪いですが)アニメーションのなんでも喰いで、テレビアニメーションから実験アニメーション、個人作家のアニメーション、海外作品まで分け隔てなく紹介していました。そのため、近年のような“アートと商業”で線を引くような感じがあまりなく、それらの上映会から出てきた方々が後に先生になっていったのはとても良かったと思います。
*ただし、(名前を挙げる時系列などは全くの無視ですが)先の通り、松本俊夫さんや萩原朔美さんや山崎博さんや相原信洋さん、伊藤高志さん他、実験的な映像表現の中でコマ撮りを用いた方々については、自分以上に話の出来る方がいらっしゃいますので前項の通り、中途半端な事を記さないようにしました。