日本のコマ撮りアニメーション 平成〜令和(1990年代編)後半

1996年
川本喜八郎さんがスウェーデンアブソルート・ウォッカが企画した国際コマーシャルで「李白」をモチーフにした短い作品を作ります。アニメーターは峰岸裕和さん。川本さんは晩年にも「李白」のアニメーション化を企画していました。
*ちなみに私は一般的に見ることの難しいこの作品を高校の英語の授業で見ています。当時の先生はどのように入手したのでしょうか。

長崎希さんが短編アニメーション「るすばん」を制作。岡本忠成さんと関係のあったスタッフの方々が参加されています。
NHKプチプチアニメでは野村辰寿さんによる“家を背負ったカタツムリ”「ジャム・ザ・ハウスネイル」が登場。当時の野村さんは『(株ロボット』の社員としてコマーシャル監督も務めていました。
コマーシャルといえば真賀里文子さんが「コンタック」のキャラクターを動かすのもこの年からです。

ところでイギリスの『アードマン・アニメーションズ』が誇る「ウォレス&グルミット」シリーズは過去に広島国際アニメーションフェスティバルで受賞したり、NHKで放送されたりするなど、日本でもアニメーションファンの中では知られた作品だったかもしれませんが、一般的な知名度という点ではどうだったのでしょうか。この年の秋に「チーズホリデー」「ペンギンに気をつけろ」そして「快適な生活」の3本が一般向けに公開されました。コマ撮りファンのみならずキャラクターの愛らしさ、物語の面白さに心惹かれた若者や大人は多かったのではないでしょうか。

1997年
伊藤有壱さんが日本テレビ「ウリナリ!」から誕生した ブラックビスケッツスタミナのMVを手掛けました。
コマーシャルでは中島信也さんが監督したHONDAステップワゴンのコマーシャルで、写真やイラストを用いたアニメーションを見る事が出来ました。その中島信也さんは新潮文庫のキャンペーンでもらう事ができた「Yonda?Movie」(アニメーター:中島史朗、小杉和次)で中編のコマ撮りアニメーションを監督します。当時の新潮文庫のキャラクターであったパンダがなぜ本を読むようになったのか?という物語で、宮沢りえさんの優しいナレーションによる東欧風のアニメーションでした。
この年に文化庁メディア芸術祭が始まり第1回の優秀賞に伊藤有壱さんの「ニャッキ!」と並んで又吉浩さんの「THE BUGS」が受賞しました。
*手法はさまざまでしたが「こどもといっしょにどこいこう」シリーズは1995年からで、(株)アニメーションスタッフルームが担当。

さて、この頃にはパソコンの値段がかなり下がり始めていました。また家庭用のビデオ撮影に使うテープがビデオテープからMiniDVに移行しつつありました。
個人制作、特に学生の作品が大量に誕生する直前です。
一方で80年代と異なり、90年代は個人制作のアニメーションがあまり目立たないように思います。一つの理由は80年代に活発な活動をしていた学生が仕事に就き、個人制作を行う時間がなくなった事。もう一つはフィルムからビデオに変わって、メディアの扱い(特に編集)が簡単ではなくなったからではないかと思います。

「ウォレス&グルミット」シリーズが3作目の「ウォレス&グルミット危機一髪!」までを合わせて上映されました。94年に公開された「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」も公開中ではなく公開後に徐々にキャラクター人気が上がっていくという展開がありました。92年の販売当時からグッズ人気のあったピングー」は99年にミスタードーナツとコラボレーションしたりしました。コマ撮り=大人にもかわいいという印象がいつどこから現れたか定かではありませんが、なんとなく近年のその流れは、1990年代中頃から2000年代初旬にかけて浸透していったような気がします。主観的感想ではありますが。

1998年
NHKからキャラクター「どーもくん」が生まれます。産んだのは合田経郎さん。動かしたのは峰岸裕和さん。今でも人気のキャラクターです。
伊藤有壱さんの活躍も続きます。伊藤さんの会社『I.TOONが誕生したこの年、NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「やんちゃくれ」のオープニングや湖池屋「ピンキー」、日本テレビ「日テレ営業中」などを手掛けます。ところでこれらのアニメーションにはアニメーターの野原三奈さんが関わられています。

「ウォレス&グルミット」の人気は衰えを知らず、キャラクターが登場するグリコ協同乳業「プッチンプリン」のコマーシャルが放送。「ウォレス&グルミット」はプリクラ(プリント倶楽部)にもなりました。

Appleが「Power Macintosh G3」を発表。家庭でも映像編集に可能な性能が搭載されただけでなく、青いクリアパーツが斬新なデザインの良さと、アルバイトをすれば手が届く価格から美術系の大学生が多く購入した事が個人制作アニメーションの大きな転換点になったと思います。「Windows'98」も発表され、インターネットの時代の幕が本格的に開きました。多摩美術大学グラフィックデザイン学科に表現コースが設置されて、日本アニメーション協会の事務局長だった片山雅博さんが非常勤講師として着任。“タマグラアニメーション”の始まりです。同じくグラフィックデザイン学科の広告映像コースには中島信也さんが着任しました。
日本アニメーション学会が設立され、水面下で大学でのアニメーション教育に向けた下地作りが始まっていきます。

1999年
2000年以降の学生アニメーションの爆発の前に、注目するべき学生作品が登場してきます。東京藝術大学から奥田寛さん「Prisoner」や喜田夏記さんの「FOUNDER OF ELEMENTS」が卒業制作として発表されます。
一方でプロはというと、“トキワ荘”メンバーの一人でスタジオゼロの鈴木伸一さんが、NHKプチプチアニメで「チックンタック」を発表しました。鈴木伸一さんがコマ撮り?と思いきや、この作品で実は3作目。1作目は1996年のプチプチアニメ枠で放送された「ガラリンとゴロリン」でした。
島村達雄さんの「水の精河童百図」が98年度毎日映画コンクールの大藤賞を受賞します。
真賀里文子さんは遣唐使ふるさと館の「遣唐使ものがたり」』を作りました。
プレイステーション「トルネコの大冒険2 不思議のダンジョン」のオープニングムービーは峰岸裕和さんが担当。

チェコアニメ映画祭が各地の映画館(ミニシアター)で開催されてイジィ・トルンカさん、ヤン・シュヴァンクマイエルさん、イジー・バルタさんなどの作品が上映されました。これは好評だったのか翌2000年にも開催され、その後も行われています。先のウォレス&グルミットもですが、この頃、短編アニメーションを映画館で見る機会がそれなりにありました。

東京都写真美術館では日本アニメーション協会が企画協力した「ピクチャー・イン・モーション」展が10月から翌年2月まで開催され、その中で日本の人形アニメーションが特集されました。そこで回顧されたのがこの年の4月に80歳で永眠された持永只仁さんと、90年に亡くなった岡本忠成さんでした。
大学では卒業制作を卒業制作展で発表するのが最も公に作品が見られる機会になります。ただし、卒制以前からコマ撮り作品を制作していたというのは当然ある事です

<90年代後半に関して>
コマ撮りは日々テレビで目にするアニメーション技法でしたがどのように作られているのか? ”という技術的な継承がほとんどなかったと思います。90年代最後半にはインターネットが登場してきたけれども、どうやって技法を調べればいいのかほとんどわかりませんでした。それは80年代の映画サークル活動、自主アニメーション上映会活動が次の世代にあまり伝わらなかった事の影響があるかもしれません。つまり一旦花開いた、集合知でアニメーション技術を伝え合う関係性が一度消えてしまったという事です。
その代わりにそこを満たしたのが大学教育でのアニメーションでした。
それでも2000年以降の学生アニメーションでコマ撮り作品の数が一気に増える事はありませんでした。やはり(1)方法がわからない(2)場所と時間を食う  は大きな問題だったと思います。

ちなみに、90年代はそれまでの師匠と弟子の関係性が変わり始めた頃と言えますが、「それ以前はコマ撮りの動かし方が個人から個人に伝導していたのか?」という事については、そこまで具体的に動かし方の指南が行われたとは思えないというのが2000年代以降にアニメーションに関わっていった中で得た感想です。だからコツのような事柄は伝達されていったとしても「こう持ちなさい」「こう動かしなさい」というような動かし方のコピーはないように感じます。皆さんがそれぞれ似て非なるアニメートをしていると思います。

<90年代後半 -CGに対する印象-
ここについては専門家ではないので、記録と記憶だけで書きます。
90年代後半でも真賀里文子さんの手掛けた「コンタックさん」など目立つキャラクターがいた事もあり、急激にコマ撮りが減っていったという視聴者感覚はあまりありません。しかしながら「資生堂 HGスーパーハード」のCMのイワトビペンギンが(株)ポリゴンピクチュアズの制作したCGだったり(1995年)、アメリカ『ILM』の制作ですが「ペプシマン」(1996年)や「キリンレモン」(1998年)などCGで出来たキャラクターが90年代後半の話題になりました。
少し前だと「フロムA」のCMの宇宙人(1991年でこれも『ILM』+『リズム&ヒューズ』)、Amigaを使った「ウゴウゴルーガ」(1992年)など。テレビ番組のオープニングやエンディングにもCGは使われており、それらがもしかしたらミニチュアやコマ撮りだったかもしれないと考えれば、確かにCGに仕事を奪われていったと言えるかもしれません。
本格的に調べていくとすれば、80年代からの『トーヨーリンクス』『ポリゴンピクチュアズ』『アニメーションスタッフルーム』などの歴史と照らし合わせていくと見えてくるものがあるのではないかと思います。場合によっては70年代からの検証が必要です。
では、個人制作はどうだったのでしょうか。
自宅には95年頃に「ADOBE Dimensions」を入れていました。大学生になった頃に「六角大王Super」が話題になったり、「iShade」が発売されたりしました。「Strata3D」というのもありました。低価格帯のソフトの記憶が強いのは学生だったからに他ならず、専門的にCGに取り組まれていた方々は「LightWave」や「3dsMax」「Maya」などを使われていたとのこと。大学でCGの授業を履修した際に触ったのは『シリコングラフィックス社』の「Softimage」でした。

また(調べてみると設立自体は1994年からとの事でしたが)2000年頃に、当時アルバイトをしていた美術予備校の横にデジタルハリウッドが出来たのを覚えています。余談ですがそこのモニターで見たのが「スキージャンプ・ペア」(監督:真島理一郎)でした。
さらに書くと「DoGA」CGアニメコンテスト開始1989年であり、かなり古くから行われています(2023年終了)。
それでも客観的な印象としては、90年代はCGが台頭した時代とはいえ、CGを個人で制作するには時間と労力が今よりもだいぶかかってしまい、自らすすんで挑んだ人達は今よりも多くなかったと思います。